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新潟地方裁判所長岡支部 昭和52年(ワ)257号 判決 1990年7月18日

主文

一  第一事件原告らの第一事件被告兼第二事件原告柏崎市に対する本件訴えをいずれも却下する。

二  第一事件原告らの第一事件被告東京電力株式会社に対する請求をいずれも棄却する。

三  第二事件被告らは、第二事件原告兼第一事件被告柏崎市に対し、それぞれ別紙物件目録六記載の建物を収去して、同目録五記載の土地を明渡せ。

四  訴訟費用は、第一事件原告ら及び第二事件被告らの負担とする。

五  この判決の主文第三項は仮に執行することができる。

事実

第一  当事者の求めた裁判

(第一事件について)

一  請求の趣旨

1 第一事件被告東京電力株式会社(以下「被告東電」という。)は、第一事件原告ら(以下「原告ら」という。)が別紙物件目録一ないし四記載の土地に出入りし、右土地を占有使用することを妨害してはならない。

2 第一事件被告兼第二事件原告柏崎市(以下「被告柏崎市」という。)は、原告らに対し、金一一八九万二八九二円及びこれに対する昭和五二年一一月一三日から完済に至るまで年五分の割合による金員を支払え。

3 訴訟費用は第一事件被告らの負担とする。

4 第2項につき仮執行宣言

二  請求の趣旨に対する答弁

(被告東電)

主文第二、四項同旨

(被告柏崎市)

1  本案前の答弁

主文第一、四項同旨

2  本案に対する答弁

(一) 原告らの被告柏崎市に対する請求をいずれも棄却する。

(二) 訴訟費用は原告らの負担とする。

(第二事件について)

一  請求の趣旨

1 主文第三、四項同旨

2 仮執行宣言

二  請求の趣旨に対する答弁

1 被告柏崎市の請求を棄却する。

2 訴訟費用は被告柏崎市の負担とする。

第二  当事者の主張

(第一事件について)

一  請求原因

1 当事者

(一) 原告らは、旧新潟県刈羽郡荒浜村(以下、特に断らない限り、町村制施行後の地方公共団体である行政村としての荒浜村も、それ以前から荒浜村と呼称されて来た村落共同体である生活共同体としての荒浜村も、ともに単に「荒浜村」、この荒浜村の区域を「荒浜地区」という。)の区域内である肩書現住所に居住する者にして、先祖代々同地区に居住してきた住民の子孫であり、同村が被告柏崎市と合併した昭和二九年七月五日当時、同村に戸を構える一家の世帯主である。

生活共同体としての荒浜村は、右合併時における一家の世帯主を構成員とする入会団体であり、原告らはその一部の者である(以下荒浜地区にかって又は現に居住する住民を「荒浜住民」という。)。

(二) 被告東電は、別紙物件目録一ないし四記載の各土地(以下右各土地を「本件第一土地」、同目録五記載の家ノ下一七番一五の土地四一二平方メートル全体を「本件第二土地」、そのうち係争の一八・一八平方メートルの部分を「本件第二土地の係争部分」、以上全部の土地を併せて「本件土地」という。)を含む海浜地などに、柏崎・刈羽原子力発電所(以下「本件原子力発電所」という。)の施設を設置し、また同施設の建設工事を企図している電力供給会社である。

(三) 被告柏崎市は、人口約八万人の昭和二九年七月五日荒浜村と合併した地方公共団体である。

2 本件第一土地に対する原告らの入会権

本件土地は、次のとおり、生活共同体としての荒浜村(入会団体)の共有の性質を者する入会地の一部である。

(一) 荒浜村の起源、地勢

(1) 荒浜村は、言い伝えによれば、天文(一五三二年ないし一五五四年)あるいは天正(一五七三年ないし一五九二年)のころ、日本海に面する南は柏崎番神岬と、北は椎谷観音岬との中間に湾入する荒涼たる砂浜に、製塩をおこなうため形成された部落をその起源とする。

(2) 地形的には、西側は日本海に面し、南西側は旧鯖石川を境として旧柏崎町、旧悪田村地区と、北側は嶽ノ尻川を境として旧高浜町大字大湊地区(以上いずれも現柏崎市)と、それぞれ境を接し、また、東側は日本海から吹付ける暴風によって形成された海抜五ないし二〇メートルの砂山を境として現刈羽郡刈羽村と境を接する狐立した南北に細長い村落である。

本件土地は、荒浜地区の西側海岸線に接する海浜地の一部で、同地区の北東端に位置する。このうち本件第一土地は、旧荒浜村青山字下浜一番一の土地(以下「旧下浜一番一の土地」という。)から、遂次分筆された土地であり、また本件第二土地は、右旧下浜一番一の土地の南に隣接する旧荒浜村字家ノ下一七番甲の土地(以下「旧家ノ下一七番甲の土地」といい、右各旧土地を併せて「本件旧土地」という。)から、遂次分筆された土地の一部である(以下、本件旧土地ないし本件土地を含む荒浜地区西側海岸線に接する海浜地を「本件海浜地」という。)。

(二) 明治以前の状況

荒浜住民は、慶長三年(一五九八年)までは、上杉氏の統治下にあり、また、その後の江戸時代中期の正徳元年(一七一一年)以降明治維新に至るまでは、与板藩の支配下に属していた。同村は、地形上、農耕地が少ないため、住民は、本件海浜地を利用して製塩した塩や日本海で漁獲した漁獲物を、近郷に行商して生計をたてていた。江戸時代以降は、沿岸漁業の技術が発達したため、本件海浜地に船小屋や漁具を保管する番小屋を建て、また、大量に漁獲された小鰯を肥料の干鰯にするため、干鰯場を設けるなどして本件海浜地を利用していた。藩または領主に対しては、荒浜村一村請の塩高地、千鰯運上地として収益に見合った年貢を上納してきた。更に、地形上、本件海浜地には多量の流木が打ち上げられることから、これを拾い集め燃料として使用してきた。

荒浜住民が塩高を上納していたことは、天和三年(一六八三年)の「荒浜村御検地水帳」に、荒浜本村に塩高一三石八斗四升と、安永六年(一七七七年)の「荒浜村新屋敷塩畑水牒」に、荒浜新田に五石五斗と、文化六年(一八〇九年)の「御年貢可納割付の事」に、荒浜新田に塩高八石八斗と、それぞれ見えることから、また、干鰯運上金を上納していたことは、天保四年(一八三三年)、刈羽村との地境争いの際、江戸幕府の評定所に提出された「差上申一札之事」に、「青山嶽山浜中訴訟方にて竹の尻山と唱え候小丸山等の各所は干鰯拵立候場所に有之運上差出来、往来より海岸は一円塩高請の場所にて」と、また、文政一〇年(一八二七年)の悪田村との臂曲(もと本件海浜地の一部)の地境争いの際、江戸幕府の評定所に提出された「差上申添口証文之事」という和解書に、「臂曲は荒浜村の干鰯運上場」である旨の、更に、地券交付直前の明治六年(一八七三年)の荒浜村段別帳に、「田二町一畝、畑三五町一反七畝、屋敷一六町九反四畝、山四〇二町八反一畝、浜七一町、砂漠干鰯場六四町、その他」と、それぞれ見えることからも明らかである。

(三) 本件海浜地の利用

右(二)のとおり本件海浜地は明治以前から荒浜住民の共同の利用に供されていた入会地であり、その後においても以下のとおり時代により変遷はあるものの共同利用が今日まで継続されている。また、後述するとおり、本件土地、本件第一土地は第三者に地上権が設定されるなどして利用され、その地代収入が生活共同体としての荒浜村(入会団体)の収入に計上されている。

(1) 漁業

昭和三〇年代ころまでは、荒浜住民の多くが、鰯、鮭、鱒、鯵、鯖などの沿岸漁業に携わってきた。時代による変遷はあるものの、漁業が盛んであったころは、本件海浜地には、船の引き上げ機が設置され、また、泊まり込みで漁業の作業をしたり漁船や魚網を保管するためのコンクリート基礎の船小屋が林立し、また、魚網を干すための網干場、鰯の漁獲期には漁獲した小鰯を干すための干鰯場、更には、天草、エゴなどの海藻類を干すための干場など、海浜地はところ狭しと利用されていた。原告池田米一が漁業に就いた昭和一七年ころにも、旧家ノ下一七番甲の海浜地には、一〇名くらいの者が宿泊可能な浜小屋が、また、昭和二三年から昭和二六年までは、下浜の嶽ノ尻川の南側の海浜地に、船頭外一〇名くらいの者が宿泊可能な浜小屋と網干場が設置されていたのであり、その後も、昭和三四年までは、家ノ下や下浜などの海浜地に浜小屋が設置されていた。

(2) 製塩

荒浜住民は、明治初期のころまで、日本海から汲み上げた海水を海浜地に撒いて塩分を凝縮し、その場に設置した釜でこれを煮詰めて再凝縮する方法による製塩を行っていた。この方法による製塩は次第に衰退したが、物資の少なかった今次大戦の戦中戦後には再び盛んとなり、近郷の農家に塩を売って生計を立てていた。

(3) 海岸漂流物の取得

都市ガスが普及するまでは、海岸に打ち上げられた流木などの漂流物を拾い集め(寄り木拾い)、家庭用の燃料としてきた。

(4) 団結小屋の設置など

原告らを含む荒浜住民は、被告東電の本件原子力発電所建設計画が明らかになったことから、これに反対するため、昭和五六年までは、本件第一土地の嶽ノ尻川寄りに団結小屋を、また、同土地の中間付近に浜茶屋を、更に本件第二土地の係争部分上に別紙物件目録六記載の建物をそれぞれ設置して本件海浜地を利用してきた。

(四) 本件海浜地利用についての規制

(1) 荒浜村は、江戸末期ころから、庄屋新平の下で一村一字を保ち、生活共同体としての村と、行政単位としての村が分離されないまま渾然一体としていたため、一村請として各戸主が負担すべき塩高・干鰯税の額、海浜地の利用方法などを、荒浜村内の戸主で構成する寄合で決めていた。しかし入会山林と異なり、本件海浜地は広大であったため、住民が本件海浜地の使用収益をめぐって対立することが少なく、利用方法についての文書による取り決めはなかった。また、荒浜住民であれば特に資格を限定することなく利用が許されていた。

(2) 明治から昭和の初期にかけて、荒浜住民は、前記のとおり、本件海浜地を船小屋、網干場、干鰯場、塩田等として高度に利用していたため、村の常会で、各自の使用の目的、使用の時期に応じて海浜地における利用の調整を図っていた。

(3) 荒浜村は、被告柏崎市と合併する昭和二九年ころまでは、村内が一二の区に区分され、その各区が常会(区会)を有し、年数回開催された常会長会議で本件海浜地の利用が取決められていた。もっとも、昭和二〇年代の終りになると、荒浜住民のうち漁業及び製塩に関係する者が減少し、本件海浜地の利用について調整を図る必要性が少なくなったため、特に毎年の常会長会議での取決めを経ることもなく住民の間には、船小屋、網干場の設置、製塩をするために従前より認められていた利用場所を侵害しない限り、自由に海浜地を利用できる旨の慣行が定着していた。

(4) 被告柏崎市と合併後、荒浜町内会が発足した。昭和二九年一一月には、同町内会々則も制定され、住民は、同町内会を構成する一二区の各区に設けられた常会において、本件海浜地の清掃や砂に埋まった道路の確保などについて協議した上、上部機関である常会長会議において多数決でこれを決定してきた。また、荒浜町内会は、被告東電が建設を進めている本件原子力発電所設置計画に対し、賛否の住民投票を行い、反対が大多数であったことの結果を踏えて、本件第一土地に立入禁止の立て札を立て、団結小屋・浜茶屋建築の募金活動などを行ってきた。

(五) 鉄管敷地料

(1) 荒浜村の北東方面には、我が国における石油採掘の発祥地である西山油田があった。ここで採掘された石油は、柏崎の日石柏崎製油所までパイプラインで輸送するため、明治三四年(一九〇一年)六月一三日、三島徳蔵に対し旧下浜一番一の土地について、「東方長九九〇間幅三尺に対し、鉄管所有の目的にて地代一坪一カ年金五銭支払期毎年一二月末日の約」で、また旧家ノ下一七番甲の土地についても、「東方三三〇間幅三尺」に対し同様の約で、それぞれ地上権が設定された(地上権設定登記は翌同月一四日)。右地上権は、同月二〇日、株式会社イントルナショナルオイルコムパニーに、更に、明治四〇年六月二四日、日本石油株式会社に、それぞれ譲渡され、その旨の移転登記が経由された。

(2) 荒浜村役場に保存され、被告柏崎市と合併後、荒浜町内会の代々の会長が管理してきた本件旧土地に関する鉄管敷地料原簿がある。これには、<1>大正二年(一九一三年)一一月一四日、牧口義矩に対し、三二六円七銭五厘、期限一ケ年の約で預け入れ、同年一二月二七日、同人に対し、更に一五八円五二銭五厘を同条件で預け入れた旨の、<2>大正三年七月一三日、中越預金銀行第四期払戻と二割五分の欠損を清算し六五円五〇銭を受領した旨の、<3>裏面に、鉄管敷地料のうち、社債券を購入してある分として一〇〇円が計上され、これらの社債券は村役場に保管してある旨の各記載がある。この記載によれば、前記地上権設定時である明治三四年から大正三年までに備蓄された鉄管敷地料の合計は、約六五〇円にもなり、当時の荒浜村の歳入の八分の一にも該当する。ところがこれが行政村としての荒浜村の歳入として計上されていないこと、また、蓄積された鉄管敷地料を牧口個人に貸し付けているが、右地代収入が公共財産であるなら個人への貸付は考えられないこと、仮に、これが行政村としての荒浜村の財産であるなら、「鉄管敷地料原簿」ではなく、預金台帳、株券台帳に記載されるべきはずであり、保管責任者は収入役であるべきところ、右鉄管敷地料原簿には、敢えて「但村長ニ於イテ預カリノ分也」と記載されていることなどを考慮すると、右原簿は、行政村の長としての村長ではなく、生活共同体(入会団体)の代表者としての村長によって保管されていたもので、右鉄管敷地料は生活共同体としての荒浜村(入会団体)の収入であったというべきである。

(六) 排水敷地代

(1) 荒浜村は、時期は不明であるが、本件第一土地のうちの嶽ノ尻川から荒浜村の中心部寄り約二〇〇メートル付近に当る約一五〇坪ほどの土地を、帝国石油株式会社(以下「帝石」という。)に対し、油田排水の濾過地として賃貸していた。右濾過地は、油田の排水を三箇所のコンクリート製池で三段階にわたって濾過した上、排水を海に流す構造をもった恒久施設であった。

(2) 右濾過地の地代は、荒浜村が徴収していたが、荒浜村が柏崎市と合併した後は、荒浜町内会が昭和四〇年の末まで右地代を徴収してきた。

(3) 右濾過地の借地権は、昭和三五年一二月三一日、帝石から帝石採油株式会社に譲渡されたが、右譲渡につき荒浜村町内会代表田村光仲が承諾し、同社から同町内会に対し、地代として四三八九円が支払われた。

(4) 荒浜村町内会は、地代を年々増額し、昭和四〇年には七〇〇六円にもなったが、同年一二月二〇日、右賃貸借契約を合意解約した。

(七) 本件土地の所有関係の経緯

(1) 明治政府は、財政的基盤を確立するため、明治五年(一八七二年)、まず地券制度により土地所有権の所在を明らかにした。民有地には地券を発行して地租を徴収したが、徳川時代以前から部落民が共同で支配、管理してきた入会山林原野等の地券の名宛てについて、「村持之小物成場山林ノ類ハ地引絵図中色分致シ可申事」(「地所売買譲ニ付地券渡方規則」二六条)とし、一村入会地には「何村公有地」の券状を発し、従来の貢租を記して、村方(村役人)または村方番持等とするよう規定した(同規則三四、三五条)。ところが、「何村公有地」は、官有地か民有地か曖昧であったため、地所名称区別法(明治六年三月二五日太政官達第一一四号)を公布し、地種を官有地・公有地・私有地など八種とし、同年八月七日告示(日報六年四号、足柄県伺、指令)により公有地は村請公有地と普通公有地に分けられ、次いで、翌明治七年一一月七日、地所名称区別改正法(太政官布告第一二〇号)及び官民所有区分離型(太政官達第一四三号)を公布して、官有地(四種)、民有地(三種)の二大区分をし、村請公有地については、「所有の確証あるもの」を民有地第二種に、それ以外のものを官有地第三種に編入することとした。また、明治九年一月二九日地租改正事務局別報第一一号「官民所有区別処分派出官心得書」により、民有地第二種に編入されるべき村請公有地として、<1>「旧領主地頭に於て既に其村持と相定め官簿又は村簿の内公証とす可き書類に記載有之分」、<2>「口碑と雖ども樹木草菜等其村にて自由致し何村持と唱来たりたること比隣郡村において保証するが如き山野類」、<3>「従来村山村林と唱樹木植付或は焼払等夫々手入を加え其村所有の如く進退致来分」、<4>「裁許状に甲村の地にして甲乙丙三ケ村進退或は三ケ村持明文有之類」と定めた。

右民有地に編入された村請公有地の地券の名宛人については、特別の定めがなく、多人数名義にすることの繁雑さなどから、当該村落の有力者などの個人各義として地券を発行することが多かった。

(2) 明治四年四月太政官布告第一七〇号をもって施行された戸籍法により、町村の単位とは別にいわゆる大区小区制がとられた。荒浜村は、同年七月、廃藩置県により一時柏崎県に編入されたが、明治六年、同県が新潟県に合併したことに伴い、同県に編入された後、第五大区小四区に属した。戸長(従来の庄屋、名主、年寄制を廃止し、小区毎に置かれたもの。)は、当時荒浜村在住の回船問屋で、同村の実力者であった牧口荘三郎が任命された。

(3) 新潟県は、柏崎県を合併した明治六年以降、地券作業を本格的に実施するようになり、まず、町村に設置されていた地券用掛を廃止し、明治七年四月二三日県庁布告(番外)を以て一村一人改正調用掛を民選することとした。荒浜村においては、佐々木順導が公選され、第五大区小四区の地租改正調総代として、牧口荘三郎が選任された。

(4) 新潟県は、前記(1)の明治政府の方針を受けて、地券交付の前提となる官民区分に関し、明治七年二月二三日県布告第四九号をもって、「村中にて進退の山野は、一村中出金して買得の他、其他村中持の確証之有分は村請の券状のこと」と定め、明治八年七月一三日県庁布達第二七三号をもって各戸長に対し〔人民心得書〕なるものを通達した。右心得書第一四条では、「田畑を始め、従前の小物成場(雑税地)試作地等は勿論、山林・原野・秣場・海岸・空地・稲干場・物干場・官林等に至るまで、持主の有無、官有・民有の区別に拘らず、地所の順次を以て更に一筆限り番号を付する地引帳並びに地引絵図を仕立てて一村毎に差出すこと」とされ、更に、同年八月一六日(第九八号附録)番外をもって区内村々帳記絵図等調方を村々用掛地租改正調用掛へ差し出すよう各戸長宛命じた。

(5) 「越後國刈羽郡荒濱村田畑屋敷其外地引絵図」(<証拠>、以下「本件地引絵図」という。)は、右の経緯により作成されたものである。これには改正調用掛佐々木順導、小四区戸長牧口荘三郎などの連署があり、昭和二九年、荒浜村が柏崎市に合併されるまで同村に保管されていたものである。本件地引絵図には、北から順に番号が付され、海岸砂浜に属する部分は(本件海浜地)、一番下浜、二番嶽ノ尻、一七番家ノ下、二〇四五番茱萸山、二〇四六番防風浜、二〇四八番粉糠山、二〇四九番二ツ山浜、二六三九・二六四〇番長磯、二六一〇番臂曲全部が、朱色に塗られて他と色分けされ、「村請公有地」と明記されている。本件地引絵図中の「一番下浜」及び「一七番家ノ下」は、地形的にみて、本件土地を含む本件旧土地に該当する。

(6) 本件旧土地に関し、地券が所在不明であるから誰名義の地券が交付されたかは明らかでない。しかし地券の控えとなるべき地券台帳(右地券台帳は、明治一七年三月一五日太政官布告第七号、同年一二月一六日大蔵省達第八九号「地租ニ関スル諸帳簿様式」に基づき書き改められたもの。)によると、本件海浜地は、全域にわたって戸長牧口義方の所有名義となっており、その裏面には、「地引帳、時価取調帳、明治一七年七月三一日調整、戸長牧口義方」と記載されている。

(7) 牧口義方は、後に衆議院議員にもなった近郷の実力者であった前記牧口荘三郎の長男で、地租改正調総代牧口荘三郎の代行として働いていた者である。このことを考えると、本件海浜地は、前記(一)ないし(四)のとおり生活共同体としての荒浜住民の共有の性質を有する入会地であり、前記(1)、(4)の地租改正の過程で、民有地第二種の村請公有地とされたが、前記(1)で述べたような実情から地券の名宛人を形式上牧口義方個人にしたものである。また、本件旧土地は、明治三四年六月一四日、牧口義方の長男牧口義矩名義で所有権保存登記がなされている。これは、前記のとおり右土地に石油輸送用鉄管敷設のための地上権を設定する必要があったため、やむをえず、便宜、当時の村の有力者であった同人名義で保存登記したに過ぎない。更に、右土地は、明治三九年一二月二六日、右同人から荒浜村に所有権移転登記がなされている。これは、荒浜住民の共有の性質を有する入会地である右土地の権利の実態を登記に反映させる手段がなかったため、やむをえず、行政主体であるとともに生活共同体としての村として二重の人格をもつ荒浜村に、便宜、売買の名を借りて、所有権移転の方法で登記を戻したのである。本件旧土地が生活共同体としての荒浜村の共有の性質を有する入会地であることは、明治三八年度及び明治三九年度の各荒浜村会議事録に右土地取得について決議した旨の記載がないこと、荒浜住民が、地租改正後も従前のとおり海浜地を使用してきており、右使用につき牧口側から異議を述べられたことはないこと、更には、牧口荘三郎が、明治九年三月二二日、八番組長品田喜三治に対し、浜年貢として四六銭余を支払っていることからも明らかである。

3 被告東電の使用妨害

被告東電は、昭和五三年一二月、本件原子力発電所施設の建築工事に着手し、昭和五六年二月、原告らが本件第一土地上に建築した前記団結小屋及び浜茶屋を警察機動隊の力を借りて実力で排除した後、本件第一土地及び家ノ下の土地の一部に有刺鉄線を張り巡らして、荒浜住民の立ち入りを禁止し、原告らの本件第一土地に対する占有、使用を妨害している。

4 被告柏崎市の不当利得

(一) 被告柏崎市は、昭和四五年七月一日、被告東電に対し、本件第一土地外二筆(本件第二土地を含まない。)を賃貸し、昭和五二年一〇月ころまでの間に、右賃料として、別紙受領賃料一覧表記載のとおり、合計二三七八万五七八四円を取得した。

(二) 本件第一土地は、被告柏崎市が被告東電に賃貸している前記土地の五〇パーセント以上を占めるところ、同土地は、原告らを含む荒浜住民の共有の性質を有する入会地であり、被告柏崎市は同土地を使用収益する権限を有していないから同被告において右賃料を利得した結果として、原告らは、本件第一土地の賃借料に相当する一一八九万二八九二円の損失を受けた。

5 結論

よって、原告らは、被告東電に対し、共有の性質を有する本件第一土地の入会権に基づき、同土地へ原告らの出入り並びに占有、使用の妨害の禁止を、また、被告柏崎市に対し、不当利得返還請求権に基づき、金一一八九万二八九二円及びこれに対する訴状送達の日の翌日である昭和五二年一一月一三日から完済に至るまで民法所定の年五分の割合による遅延損害金の支払を各求める。

二  被告柏崎市の本案前の主張

原告らの被告柏崎市に対する、本件不当利得返還請求は、本件第一土地が、原告らを含む荒浜住民の共有の性質を有する入会地であることを前提に、入会権者の一部と主張する原告らにより提起されたものであるところ、かかる訴は、入会団体に総有的に帰属している権利の行使として入会団体を構成する構成員全員が原告となって提訴さるべき固有必要的共同訴訟であるから、右訴は当事者適格を欠き、不適法である。

三  請求原因に対する認否

(被告両名)

1  請求原因1について

(一) (一)の事実は、荒浜村と被告柏崎市が昭和二九年七月五日に合併したことを認める、原告らが入会団体の構成員であることを否認し、その余の点は知らない。

(二) (二)及び(三)の事実を認める。

2  同2について

(一) 冒頭の主張を争う。

(二) (一)は(1)の事実は知らない。

(2)の事実を認める。

(三) (二)の事実は知らない。

(四) (三)は、冒頭の主張は争う、(1)の事実のうちの原告池田米一がかって漁業に従事していたこと及び同人以外にも漁業に従事していた者がいたこと、同(2)の事実のうちの物資の欠乏していた今次大戦の戦中戦後に、海浜地で原始的な方法による塩炊きがなされていたこと、同(3)の事実のうちの荒浜住民が海岸に打ち上げられた流木などを自由に取得してきたこと及び同(4)の事実を認め、その余の点は知らない。

原告らが主張する浜小屋及び団結小屋は、被告東電が同柏崎市から本件第一土地を賃借し、占有及び管理するようになった後の昭和四九年六月及び同五〇年六月に、被告らの制止を押し切り、原発建設反対行動の一環として突如として設置された不法な建築物である。

(五) 同(四)は、海浜地の利用方法について文書による取り決めがなかったことを認め、荒浜住民が本件海浜地を高度に利用していたこと及び本件海浜地の利用を調整した村常会が存在したことを否認し、その余の点は知らない。

(六) 同(五)は、本件旧土地に原告ら主張の地上権が設定され、原告ら主張の経緯でこれが譲渡されたことを認め、鉄管敷地料が生活共同体としての荒浜村の収入であったこと及び生活共同体としての荒浜村が鉄管敷地料原簿を保管していたことを否認し、その余の点は知らない。

右鉄管敷地料は、本件旧土地が荒浜村の所有名義となった後は行政主体としての同村に納付されていた。

(七) 同(六)は、濾過地の地代を荒浜村が徴収していたことを認め、本件第一土地上に原告ら主張のコンクリート製濾過地が設置されていたことを否認し、その余の点は知らない。

本件第一土地上に、昭和一〇年ころ、簡易な濾過地が存在していたことはあったが、荒浜村が被告柏崎市と合併した昭和二九年ころには、これすら既になくなっていた。

(八) 同(七)は、本件地引絵図に村請公有地との記載があること、土地台帳によると、本件海浜地の大部分が牧口義方の所有名義となっていること、明治三四年六月一四日、本件第一土地を含む旧下浜一番一の土地は、右義方の長男である牧口義矩名義で所有権保存登記がなされ、明治三九年一二月二六日、荒浜村に所有権移転登記がなされたこと及び明治三八年度と明治三九年度の各荒浜村会議事録には右土地を取得した旨の記載がないことを認め、その余の点は知らない。右所有権保存登記及び所有権移転登記が便宜的なものであったとの主張及び本件土地が共有の性質を有する入会地である旨の主張を争う。

本件地引絵図は、本件土地が原告らを含む荒浜住民の共有の性質を有する入会地であるとの資料とはいえない。即ち同地引絵図は、第一に、作成年次が不詳である。第二に、同地引絵図が「村請公有地」とする朱塗部分のうち、県道から山側は、明治三九年に分筆された青山町字嶽ノ尻二番一ないし三の土地に該当するところ、これらの土地は、牧口義矩に所有権保存登記がなされた後、何名かの私人に売買され、昭和四五年ないし昭和四七年に被告東電が所有権を取得していること、また、長磯二六三九番二、同番四及び五の各土地は、右義矩の所有権保存登記後、荒浜村、被告柏崎市に順次譲渡され、本件土地と同様の所有権移転経過を経ているにもかかわらず、原告らは、これらの土地については、入会権の主張をしていない。第三に、同地引絵図中の「村請公有地」には、粉糠浜二〇四八番の土地のように、相当の筆数に分筆され、その所有権移転の経緯も公有地または私有地とそれぞれ別個で、「村請公有地」の性格と相容れないものを含んでいる。

3  同3について

認める。

(被告柏崎市のみ)

4 請求原因4について

被告柏崎市が同東電に対し、昭和四五年七月一日、原告ら主張の土地を賃貸したこと、被告東電から昭和五二年一〇月ころまで賃料を取得していたことを認め、その余の点を否認し、主張を争う。

四 被告両名の反論及び抗弁

1  本件土地所有権取得の経緯

(一) 本件旧土地を含む旧下浜一番一の土地は、もと牧口義方の所有であったが、右義方が明治三二年一二月二〇日死亡したため、同人の長男である牧口義矩が同土地の所有権を家督相続し、不動産登記法施行後間もない明治三四年六月一四日、同人名義で所有権保存登記がなされた。右義矩は、本件旧土地に多大の資本を投じて製塩場を建築し、製塩事業を行おうとしたが、これが失敗に帰したため、明治三八年四月二四日、荒浜村に同土地を売り渡し、明治三九年一二月二六日、売買証書に依る旨の所有権移転登記を経由した。その後、昭和二九年七月五日、右荒浜村が被告柏崎市と合併したことにより同被告が同土地の所有権を承継取得し(その旨の所有権移転登記は昭和五一年八月六日)、このうち旧下浜一番一の土地は別紙物件目録一ないし四記載の各土地に順次分筆したうえ、昭和五二年一〇月六日、被告東電に対して右各土地を売却したため(その旨の所有権移転登記は同月一四日)、現在、本件第一土地の所有者は被告東電である。

(二) 原告らは、牧口義矩から荒浜村への本件土地の所有権移転登記が便宜的なものであった旨主張するが、荒浜村が牧口義矩から売買により本件旧土地を取得したことは、登記簿上登記原因として売買証書に依る旨の記載があること自体から推定される。従って右登記のなされた明治三八年及び明治三九年当時の各村会議事録に、右売買に関する記載がなかったとしても、登記簿に記載されているとおりの売買が適法になされたものと推認するのが合理的である。また、明治四四年度及び明治四五年度の村会議事録の各財産目録中の村有財産として本件旧土地に関し「下浜一、九町六反歩、雑種地」、「家ノ下一七甲、十二町八反四畝六歩、雑種地」との記載があり、同村の財産原簿にも登載されていることから見ても、実際に荒浜村が、売買によって牧口義矩から同土地の所有権の譲渡を受けたことは明らかである。

2  本件土地の使用黙認ないし自由使用

荒浜村では、昭和二五、二六年以前の漁業が盛んであった当時でさえも、漁業専従者自体はそれ程多くなく、地引き網漁などに一時的に雇用される住民を含めても、漁業従事者は住民の一部であり、これらの者は、他人に迷惑とならない範囲で本件海浜地に船小屋や網干場を設置し、干鰯場として利用してきたに過ぎず、しかも、利用されていた場所は、主として集落に近い家ノ下の浜であり、漁業が衰微した昭和三〇年以降は、このような利用すらなくなった。また、製塩については、牧口義矩が、明治三三年ころ本件海浜地を利用して製塩事業を企業化しようとしたことはあったものの、それ以外は、物資の欠乏した戦中、戦後の短い時期に、荒浜住民が、自宅の敷地内もしくは自宅に接近した家ノ下付近で釜に海水を入れ、薪を炊いて水分を蒸発させるという原始的な方法で製塩したことがあったに過ぎない。更に、流木、漂着物等の取得については、物資の乏しかった時代に、本件海浜地に打ち上げられた流木等を先に発見した荒浜住民が、一種の無主物先占としてこれを占有し、その所有権を取得していたに過ぎなかった。してみると、荒浜住民の本件海浜地の使用形態は、原告ら主張の入会権に基づくものではなく、同土地所有者であった、荒浜村ないしは被告柏崎市の黙認による使用もしくは自由使用というべきものである。

3  入会団体の不存在

原告らは、荒浜村が被告柏崎市と合併した昭和二九年七月五日当時の世帯主が入会団体の構成員である旨主張する。しかしそうすると、当時、荒浜村に含まれていた荒浜新田(現柏崎市松波町)の居住者もその構成員ということになり、入会団体の構成員の範囲が極めて不明確である。そして原告らの主張によっても、入会団体構成員の資格の得喪についての取り決め、入会地の使用収益に関する規制及び管理をする機関の存在は不明である。加えて、本件海浜地に対する前記のような使用実態を考慮すると、入会権存続の基礎となる入会団体は、存在しなかったものというべきである。

4  荒浜村の時効取得

(一) 荒浜村は、以下のとおり本件土地を所有地として管理占有してきた。

(1) 牧口義矩から本件旧土地を取得後、同村の財産目録及び財産原簿にこれを登載して同土地を帳簿上管理していた。

(2) 大正一〇年二月、本件海浜地に打ち寄せる砂利を、競争入札によって売却する旨村会に提案し、翌年、本件海浜地の全域においてこれを実施し、砂利公売による収入を得ていた。そして昭和三年以降は、右売却益を荒浜村の一般会計の部に村有土地生産砂利収入として計上し、昭和九年三月には砂利公売競争入札規則を制定してこれを管理してきた。

(3) 本件旧土地に設定された地上権に基づく鉄管敷地料を徴収していた。

(4) 飛砂の被害を防ぐため、新潟県の公有林野造林補助規程に基づき、本件土地を含む村有地に造林事業を施行し、森林法の保安林指定を受けるなどしてきた。

(二) したがって、荒浜村は、遅くとも、同村が右各土地の所有権移転登記を具備した明治三九年一二月二六日から一〇または二〇年の経過により、同土地の所有権を時効により取得した。

(三) 被告両名は、本訴において、右時効を援用する。

5  被告柏崎市の時効取得(予備的)

(一) 被告柏崎市は、以下のとおり荒浜村と合併後、本件土地を所有地として管理占有してきた。

(1) 荒浜村と合併した際、本件旧土地が同村の村有財産として基本財産目録に記載されていたことから、右合併後、土地台帳に同土地の所有者を同被告と記載してこれを管理し、同土地には固定資産税を賦課しなかった。

(2) 荒浜村から承継した前記砂利採取権に基づき、昭和四九年まで砂利の採取料を徴収し、これによる収入を歳入に計上してきた。

(3) 本件土地のうち別紙物件目録二記載の土地については、昭和三九年六月三〇日、森林法による保安林指定を受け、保安林事業を実施してきた。

(4) 昭和四五年からは被告東電に対し本件第一土地外を賃貸し、賃料収入を得ていた。

(二) したがって被告柏崎市は、荒浜村と合併した昭和二九年七月五日から一〇年の経過により、本件第一土地の所有権を時効により取得した。

(三) 被告両名は、本訴において、右時効を援用する。

五 反論及び抗弁に対する認否

1  1について

本件土地につき、被告両名主張の所有権保存登記及び所有権移転登記が経由されたことを認め、その余の点を否認する。

本件土地は、請求原因2記載のとおり、荒浜住民の共有の性質を有する入会地である。

2  2について

否認もしくは争う。

3  3について

否認する。

4  4について

荒浜村が、本件旧土地を財産目録及び財産原簿に登載したこと及び砂利を公売していたことを認め、鉄管敷地料を徴収していたこと及び荒浜村が本件旧土地を現実に占有していたことを否認し、荒浜村が本件土地を含む村有林につき保安林指定を受け、造林事業を施行してきたことは知らない。行政主体としての荒浜村が、本件土地について取得時効の完成により所有権を取得したとの主張を争う。

荒浜住民は、従前のとおり本件海浜地を利用してきたのであって、しかも、請求原因2の(五)及び(六)記載のとおり、鉄管敷地料及び濾過地の排水敷地代を徴収してきたのであるから、本件土地の現実の占有者は荒浜住民というべきである。

5  5について

被告柏崎市が、昭和二九年七月五日、荒浜村と合併したこと、砂利採取料を昭和四九年まで徴収し、これを歳入として計上してきたことを認め、同被告が本件土地を現実に占有してきたことを否認し、その余は知らない。同被告が取得時効の完成により本件土地の所有権を取得したとの主張を争う。

荒浜住民は、請求原因2の(六)記載のとおり、被告柏崎市との合併後も昭和四〇年一二月ころまで濾過地の排水敷地代を徴収し、更に、昭和三五年に帝石から帝石採油株式会社への借地権譲渡がなされた際には、生活共同体としての荒浜村の代表である町内会長が右譲渡を承諾し、右借地契約の解除により右土地の返還を受けるなど、本件第一土地を現実に管理、占有してきたのであって、同被告が同土地を現実に占有したことはない。

六 再抗弁

(所有の意思の欠缺)

請求原因2記載のとおり、本件旧土地は、代々生活共同体としての荒浜村の共有の性質を有する入会地であったものを、便宜、地租改正の過程において、牧口義方の名義とし、更に同土地に保存登記を得た牧口義矩が行政主体としての荒浜村に対し、売買の形を借りて登記を戻したにすぎないのであるから、行政主体としての荒浜村は、本件土地に対する所有の意思を有していない。また、荒浜村との合併により同村の財産を承継した被告柏崎市は、右合併に際し、本件土地の入会権を廃止する旨の決議をしていないのであるから、荒浜村の同土地に対する占有をそのまま承継したものというべく、同被告も同土地に対する所有の意思を有していない。

七 再抗弁に対する被告両名の認否

被告柏崎市が、荒浜村との合併に際し、入会権を廃止する旨の決議をしていないことを認め、その余の点を否認する。

(第二事件について)

一  請求原因

1 被告柏崎市の本件第二土地の所有権取得原因

(一) 本件第二土地は、前記のとおり旧字家ノ下一七番甲の土地から分筆された保安林であるところ、第一事件の反論及び抗弁1に記載のとおり、右土地は、もと牧口義矩が所有していたが、明治三八年四月二四日、義矩から荒浜村に売買譲渡され、昭和二九年七月五日、荒浜村が被告柏崎市と合併したため、同被告が右土地の所有権を承継取得した。

(二) 仮に、本件第二土地が事件原告ら主張のとおりの入会地であったとしても、第一事件の抗弁4及び5記載のとおり、荒浜村ないし被告柏崎市は、本件第二土地を含む旧家ノ下一七番甲の土地を一〇年ないしは二〇年間占有、管理してきたのであるから、同土地の所有権を時効取得した。

(三) 被告柏崎市は、本訴において、右時効を援用する。

2 本件第二土地の係争部分の占有

第二事件被告らは、本件第二土地の係争部分に別紙物件目録六記載の建物を共有して、同土地を占有している。

3 結語

よって、被告柏崎市は、第二事件被告らに対し、本件第二土地の係争部分の所有権に基づき、右建物の収去及び同土地の明渡しを求める。

二  請求原因に対する認否

1 請求原因1について

(一) (一)の事実に対する認否は、第一事件の反論及び抗弁に対する認否欄の1記載のとおりである。

(二) (二)の事実及び主張に対する認否は、第一事件の反論及び抗弁に対する認否欄4・5記載のとおりである。

2 同2について

認める。

三  抗弁

1 原告らの身分は第一事件の一請求原因1(一)記載のとおりであり、原告らを除く第二事件被告らも同様の身分を有し、同2記載のとおり、本件第二土地は、生活共同体としての荒浜村の共有の性質を有する入会地であるところ、第二事件被告らは、右入会権に基づき別紙物件目録六記載の建物を建築した。

2 第一事件の六「再抗弁」欄記載のとおりである。

四  抗弁に対する認否

1 1についての認否は第一事件の三「請求原因に対する認否」欄の1(一)、2記載のとおりである。

2 2についての認否は、第一事件の七「再抗弁に対する被告両名の認否」欄の記載のとおりである。

第三  証拠<省略>

理由

第一  当事者の地位について

第一事件請求原因1につき、(二)及び(三)の事実は、いずれも同事件当事者間で争いがなく、<証拠>によれば、原告ら及び第二事件被告ら(以下「原告住民」という。)は、いずれもおおむね、代々荒浜地区に居住してきた者(辿りうる最古の者は天保一四年・一八四三年生れの原告池田の祖父伝助であるが、同原告の父米年は明治四一年に分家し戸主となった者である。)の子孫であり、現に肩書住所に世帯主として居住している者であることが認められ(原告らが現に肩書住所に居住していることは第一事件当事者間に争いがない。)、右認定に反する証拠はない。

第二  本件不当利得返還請求の訴えの適否について

原告らの被告柏崎市に対する本件不当利得返還の訴えは、原告らを含む荒浜住民が構成員である生活共同体としての荒浜村が本件土地に有すると主張する共有の性質を有する入会権を前提に、同被告が被告東電から本件第一土地(外二筆)を賃貸して取得した賃料相当の金員を不当利得であるとして、その返還を求めるものである。しかし、共有の性質を有する入会権であっても、その所有の形態はいわゆる総有であって、入会団体の個々の構成員は、通常の共有におけるように入会地に対し割合的持分権あるいはその類の権限を有するものではない。個々の構成員は入会権の内容たる使用収益権能を個別的に有しており、これの行使はその性質上、当然単独でできるものと解されるが、入会権それ自体の管理処分に関する権能については、原則として通常の共有と異り個々の構成員単独で行使はできず、入会団体を構成する構成員全員が共同してこれを行使することを要するものと解される。従ってまたこれを訴訟上行使するためには、入会団体を構成する構成員全員が訴訟当事者となることを要するいわゆる固有必要的共同訴訟によるべきものと解するのを相当とする。しかして、被告柏崎市に対する本件不当利得返還請求は、帰するところ、本件第一土地に存するという入会権そのものの管理処分に関する事項に外ならず、これを訴訟上主張し行使するためには、入会団体を構成する構成員全員で提訴すべきところ、原告らは、入会団体と主張する荒浜住民の一部に過ぎないことは、前記認定のとおりである。

したがって、原告らの被告柏崎市に対する本件不当利得返還の訴えは、当事者適格を欠き不適法である。

第三  荒浜住民の入会権について

原告住民は、生活共同体としての荒浜村が、本件土地に対し、共有の性質を有する入会権を有すると主張するので、以下この点について検討する。

1  基本的事実関係

<証拠>を総合すると次の事実が認められ、<証拠判断省略>。

1  本件土地の俯瞰

(一)  荒浜地区の歴史

本件土地の存する荒浜地区は、現に被告柏崎市の行政区域内にある。同地区内には、由来、荒浜本村ほかの集落(一村一字)が存し、江戸時代の中期(正徳年間)以降は、与板藩井伊家の所領となって明治維新を迎えている。

明治四年(一八七一年)の廃藩置県後、荒浜地区は、一時、置県された柏崎県に編入されたものの、明治六年七月、柏崎県が新潟県に合併されたことに伴ない同県に編入され、第五大区小四区に所属した。 明治二二年(一八八九年)四月、市制町村制の施行に伴ない行政主体としての荒浜村(旧刈羽郡荒浜村)が誕生し、荒浜地区の全域が同村の行政区域となった。その後昭和二九年七月五日、荒浜村は、被告柏崎市に合併されたことは、前記のとおりである(右合併は、正しくは、昭和二九年七月三日付新潟県告示九八一号「刈羽郡荒浜村を廃し、その区域を柏崎市に編入し、昭和二九年七月五日から施行する。」による。当時の荒浜村々長は牧口義矩)。

(二)  荒浜地区ないし本件土地の地勢

荒浜地区の地勢の概要は、第一事件請求原因2(一)の後段のとおりであり(右は第一事件当事者間に争いがない。)、海岸線の総延長は約七キロである(但し現・鯖石川の河口は約一キロ北に移動している)。同地区の中心にして最大の集落は、日本海に面する現・柏崎市荒浜一ないし四丁目(旧荒浜本村、俗に「荒浜町」)で、その中心部は北の嶽ノ尻川から南へ約三キロ弱に位置する。また柏崎市の中心部から北北東に約五キロ、刈羽郡刈羽村所在のJR越後線(柏崎・新潟間)の荒浜駅(柏崎駅から三番目の駅)から西北西約一・五キロに位置する。荒浜地区の右中心集落には、かっては荒浜村役場など、同村の主要な施設が置かれ、また現在でも荒浜公民館、郵便局、小学校等の施設がある。他の集落は、日本海に面し、現・鯖石川の河口に天保年間以来開けた旧荒浜新田(現在の松波一ないし四丁目附近、俗に「松波町」)である。右荒浜と松波の集落の間には、海岸寄りに国道三五二号線(往時の北陸道)が走る。

本件土地は、それぞれ荒浜地区の右中心部から北北東に約七、八〇〇メートル、右荒浜駅から北北西に約三キロ、右越後線の刈羽駅(柏崎駅から四番目の駅)から西に約二キロに位置し、海岸線の延長は約一・八キロである。本件土地及びその直近には、本件係争の団結小屋等及び本件原子力発電所施設を除き、目ぼしい建物はなく、辺り一帯は、荒涼たる日本海の海浜地が続く。「柏崎から椎谷まであいに荒浜荒砂悪田の渡しがなきゃよかろ」と三階節に謡われる所謂である。

本件原子力発電所の用地は、荒浜地区とその北の柏崎市大湊地区及び東に隣接する刈羽村の各一部に跨り、海岸線約三キロ、内陸部へ最奥約一・五キロのほぼ台形の区域である。その中枢にして大部分の施設は、右海岸線に沿って走るもとの国道三五二号線(旧県道新潟・寺泊・柏崎線-前記国道の延長であったが、現在国道三五二号線は、本件原子力発電所用地の外側をこれに沿って一旦大きく東側に迂回している。)を挟んで、本件土地の東側にある。

本件土地は、荒浜地区の北東端に位置する。北は小河川である嶽ノ尻川、南は旧字ノ下一七番甲の土地から分筆された家ノ下一七番九の土地、東側は前記旧県道を挟んで旧嶽ノ尻二番の土地、そして西側の日本海に囲まれた土地である。

(三)  登記関係

本件旧土地(公簿面積は、旧下浜一番一の土地が二〇万一八二八平方メートル、旧家ノ下一七番甲の土地が合計約一二万七三五三平方メートルである。)については、不動産登記法(明治三二年法律二四号・同年六月一日施行)施行後まもない明治三四年六月一四日、新潟地方法務局柏崎支局同日受付第三六四七号をもって、牧口義矩名義の所有権保存登記がなされた。その後、右義矩から荒浜村に対し、同支局明治三九年一二月二六日受付第七〇一七号をもって、明治三八年四月四日売買証書を原因とする所有権移転登記、また、荒浜村から被告柏崎市に対し、同支局昭和五一年八月六日受付第一四三八九号をもって、昭和二九年七月五日合併承継を原因とする所有権移転登記がそれぞれ経由された。旧下浜一番一の土地は、昭和四九年五月二四日、下浜一番一及び同番二に分筆され、昭和五二年一二月一二日には下浜一番一から同番四が、また、同月一九日には下浜一番二から同番三が各分筆(本件第一の各土地)された。そして、被告柏崎市から被告東電に対し、同支局昭和五二年一〇月一二日受付第二〇九〇一号をもって、同月六日売買を原因とする所有権移転登記がなされ現在に至る。また旧家ノ下一七番甲の土地については、昭和四九年五月二四日、同土地から家ノ下一七番四の土地が、更に昭和五八年八月一八日、右家ノ下一七番四の土地から本件第二土地が、それぞれ分筆されたが、本件第二土地の所有名義人は、現に被告柏崎市である(右各所有権保存登記及び移転登記がなされていることは当事者間に争いがない。)。

(四)  荒浜地区の人口

大正元年七月発行の荒浜村誌では、荒浜村の戸数・人口は、元禄六年(一六九三年)では、四〇戸三一〇人(うち荒浜新田九戸五五人)、文化一四年(一八〇七年)では、八九三人、文政二年(一八一九年)では、三三二戸(うち荒浜新田六九戸)、明治七年(一八七四年)では、四八七戸、明治三三年(一九〇〇年)では、五二六戸、三四三八人(男一六七二人・女一七六六人)、明治三九年(一九〇六年)では、五五三戸、三七六九人(男一八六九人・女一九〇〇人)、明治四四年(一九一一年)では、五五六戸、三九一四人(男一九七一人・女一九四三人)とある。柏崎市との合併当時の昭和二九年六月現在は七四二戸・三三三九人(荒浜本村で約三九〇世帯)であった。昭和六二年当時の荒浜本村は約三九〇世帯一五〇〇ないし一六〇〇人程度である。

2  地租改正の原則的経緯

(一)  土地所有の公認と地券の交付

明治新政府は、財政的基盤の確立が急務であったことから、まず、明治五年(一八七二年)二月一五日太政官布告第五〇号をもって地所永代売買禁止の旧制を解いて個人の土地所有を認めた。また、同年二月二四日、土地売買譲渡につき地券渡方規則を定め、同年七月四日の大蔵省達第二五号により、土地売買を容易にするため、全国の民(私)有地一筆毎に地券を発行する地券制度を施行し、土地の所在地、面積、石高、地代金、所有者の氏名などを記載した地券を交付することとし、明治六年七月二八日、地租改正法を公布して地租改正事業に着手した。

(二)  官民有地の区分

地券は、土地の所有者を公証するだけでなく地租の標目となるべきものでもあった。そのため地券交付作業は、まず土地の所有者を確定し、土地を丈量して地価を確定したうえ、地租を確定していった。明治政府は明治六年七月の地租改正法の公布に先立つ同年三月二五日、太政官布告第一一四号をもって、全国の土地を、官有地、私有地、公有地など八種類に区分した。しかし実際には、このうちの「公有地」(「野方秣場ノ類郡村市坊一般公有ノ税地又ハ無税地」で、郡村市の戸長に公有地の証として地券を渡し、地租区入費は景況によって収入せしめる。)は、一方で「私有地」(個人の所有する各種の土地で、地券を発行し地租区入費を賦課する。)との、他方で「官有地」(山林等で従来無税の土地で、地券を発行しない。)との、それぞれ区分が曖昧な場合が多数存在したため、各地方で地租改正の事務にあたっていた地方官の間に、右土地を民有地として認定すべきか否かにつき混乱が生じた。大蔵省租税寮は明治六年八月七日同寮改正局日報達の形式で各府県に通達し、村請公有地なる名称を創定し、公有地のうち一定の要件を満たすものを村請公有地として民有地同様の取扱いを与えようとしたが、右曖昧さはなお残り、地券交付作業は遅れがちとなった。そこで、明治政府は、官有地、私有地のほかに公有地を区分することをやめ、明治七年一一月七日太政官布告第一二〇号地所名称改正法をもって、すべての土地を官有地(四種)と民有地(三種)に大別した。民有地のうち、個人所有の確証のある宅地、山林、耕作地を民有地第一種(地券を発し地租を課し区入費を賦課する土地)に、民有の確証のある用悪水路、溜池敷、堤敷、井溝敷地などを民有地第三種(地券を発し地租区入費を賦課しない土地)に、従前公有地とされていた共有、一村あるいは数村持の民有地は、個人所有と区別するため民有地第二種(「人民数人或ハ一村或ハ数村所有ノ確証アル学校病院郷倉牧場秣場社寺管官有地ニアラサル土地ヲ云」)に区分した。

(三)  村請公有地の帰属

明治政府は、地租改正を強力に推進するため、明治八年、それまで地租改正の事業主体であった大蔵省租税寮に代えて地租改正事務局を設置した。そして明治九年一月二九日地租改正事務局別報第一一号達、地租改正事務局派出官心得書をもって従前公有地とされていた土地について官民有区分の基準を示した上、同年六月一三日太政官布告第八八号をもって地所名称区別布告を改正し、民有地第二種に編入されるのは前記日報達により村請公有地とされる土地でかつ所有の確証のあるものに限った。これにより官民有の区分が明確となったため、地租改正事業は進展し、明治一四年ころまでには、全国の民有地の所有者に対して地券が交付され、同時に民有地の地価が決定されたため、土地所有者に地租が賦課され、明治政府の地租改正事業は完了した。

(四)  地券及び地券台帳

ところで、地券制度の浸透に伴い、土地の売買譲渡も盛んとなり、所有名義人の変更など地券の書換がひんぱんに行なわれるようになるとともに、土地の所有、権利移転の経過を示すべきものとして地券台帳(基本的には地券の控えを綴ったもので、当初は大帳の字があてられていた。)の整備が必要となったが、同台帳については、当初、「最前調査セル帳簿ヘ朱字ニテ更正ノ反別地価税額ヲ記スカ又ハ新タニ製ストモ便宜タルヘシ」(地方官心得書)としか規定されておらず、統一的な様式がなかったため土地の売買譲渡に伴う地券の書換に際し混乱が生じた。そこで、明治九年三月一三日地租改正事務局別報達をもって統一的な地券台帳雛型を発表し、更に、明治一二年七月一二日大蔵卿連署地租改正事務局達乙第一号により、それまで土地売買譲渡の際になされていた地券と台帳とを県印でもって割印する割印制度を廃止したため、地券台帳が土地の所有権を公示する公簿として独立の存在をもつようになり、土地の所在、面積、所有者などが公簿によって証明されるようになるにしたがい、地券自体はその重要性を失うこととなった。

(五)  土地台帳

地租改正事業は、一応完成したものの、拙速主義と強行のため問題も多かった。そこで、明治政府は、地租改正事業の欠陥を補正し、その成果を確定して確固たる政権基盤とするため、明治一七年三月一五日、それまでの地租改正法条例等を廃止して地租条例を公布し、地租の根本台帳の整備を行うため同年一二月一六日大蔵省達第八九号をもって「地租ニ関スル諸帳簿様式」を定めたが、地租改正の成果がこのような公簿の上で確定登録されるとなると、実地と帳簿との正確な一致が必要不可欠であることから、土地の丈量を正し、現況上の変動を明確にするため、再び全国的な地押調査を行うこととし、明治一八年二月大蔵大臣訓令主秘第一〇号をもって「地押調査ノ件」を府県に命令し、従来の地券台帳のほかに新たに土地台帳制度を創設するとともに、地租改正当時作成され、戸長役場に備え付けられていた図面も、測量技術の未熟、その後の地目の異動についても改正を加えないなどから実地と合わず、地図の用をなしていなかったため、更正することとした。

(六)  不動産登記法の施行

地押調査事業の進捗に伴って土地台帳が編製され、明治二一年中には全国でほぼその事業が完成されたことから、明治二二年三月二二日勅令第三九号で土地台帳規則が公布され、また、同日法律第一三号で「地券ヲ廃シ地租ハ土地台帳ニ登録シタル地価ニヨリ其記名者ヨリ之レヲ徴収ス」と規定されて地券及び地券台帳は廃止され、更に、民法典の施行(明治三一年)に伴い、より整備された現行不動産登記法が明治三二年二月二四日に制定され、同年六月一六日施行された。

3  荒浜村における地租改正事業

(一)  地租改正役員の任命

新潟県は、明治六年七月、柏崎県を合併した後、全県統一の大区小区制を採用、小区毎に戸長を置いた。荒浜村は、第五大区小四区に属した。新潟県においては、柏崎県の合併後、地租改正事業が本格化したが、その事業を進めるため明治七年四月二三日の布告により一村毎に改正調用掛を、大区毎に地租改正調総代を置いた。そして、第五大区小四区荒浜村の改正調用掛としては、佐々木順導が、同年八月一六日、第五大区の地租改正調総代として牧口荘三郎(天保七年・一八三六年五月生、明治三〇年・一八九七年六月死亡、第五大区小四区の戸長でもあった)が選ばれた。

(二)  地引絵図の作成

新潟県は、地所名称改正法に基づく官民有区分を実施するため、明治八年一月二四日県庁布告第一九号をもって区戸長用掛地券調総代、同用掛に対し、海岸砂漠に至るすべての土地について、地券調帳簿の他に見取り絵図を添えて地租改正掛宛提出するよう指示し、更に、同年七月一三日県庁布達第二二七号で地租改正人民心得書を公示し、官有地、民有地にかかわらず一村毎に地引帳並びに地引絵図を差し出す旨各区戸長宛に指図するなど、地租改正を強力に推進したため、県内の地租改正事業は、明治一〇年ころまでには完了した。

本件地引絵図は、和紙製の四枚一組のものである(甲第一〇号証の一ないし四自体は写真)。そのうちの第一葉の上部の余白部分に、「越後國刈羽郡荒濱村田畑屋敷其外地引絵図」とある。また第四葉の下欄には、「第五大區小四區刈羽郡荒濱村用掛牧口政三郎」(ほか同役三名)、「地租改正調用掛佐々木順導」、「百姓總代品田多郎右エ門」(ほか同役三名)とそれぞれ氏名が連記され、またその末尾には、「右之通相違無御坐候以上戸長牧口荘三郎」とあって、各人それぞれの名下に押印されている。右地引絵図は、日本海を下にして荒浜地区の全域が図示されている(百間を五寸に縮尺)。最北端の宮川村境から(ここには嶽ノ尻川は図示されていない。)最南端の旧鯖石川の河口までは約一二五センチ、海岸線から山側最奥端は約二三センチに写されている。海岸に接する部分は、極く僅か旧鯖石川の中州の部分を除き、すべて連続した薄朱色で色付けされており、他に孤立した同色の部分はない。またその幅員には相違があり最大で約一〇センチに写されている。そして右地引絵図中の凡例では、この薄朱色の部分は、「村請公有地」とある。薄朱色部分の海岸線に接する部分を、北から南へ順次辿ると、最北端から、「嶽拾八」(凡例で「嶽」は字嶽之尻浜の略。右文字記載は黒墨の筆書きであるが、「拾六」の部分は、濃い朱色筆で縦一本線で朱抹され、その傍らに同じく朱色で「改貳番」と記されている。字嶽之尻浜の東側が字小丸山で、ここは薄縁色で山)、「下濱拾七」(前同様に「下濱」は字下浜の略、「改壱番」と朱書。字下浜の東側が字青山で薄縁色、以上第四葉)、「家拾七」(前同様に「家」は字家ノ下の略、右「家拾七」の東側に荒浜本村の集落が図示され、ここは多く肌色をもって田畑屋敷であることを表わしている。以上第三葉)、「二ツ山貳千四五九番」(前同様に「二ツ山」は字二ツ山浜の略。なお「貳千四五九番」の部分は、貼付された小さな短冊型の紙片に記載されている。字二ツ山浜の東側がいずれも同じく薄朱色の字粉浜、字防風浜、字茱萸山、以上第二葉)、「礒貳千六百三九番」(前同様に「礒」は長礒の略で、「貳千六百三九番」の部分は貼付された前同様の紙片に記載。字長礒の東側が同じく薄朱色の字臂曲、以上第一葉)と続いており、右地引絵図中には、その製作年月日は記載されていない。

(三)  本件旧土地の地券及び地券台帳

地租改正の結果、本件旧土地に対し、誰名義の地券が発行されたのかは明らかではない。しかし明治一七年七月に調製された地券台帳では、本件海浜地の大部分の所有名義は、当時の荒浜村の戸長で、前記牧口荘三郎の長男であった牧口義方(嘉永五年・一八五二年一二月生)となっている(地券台帳上、本件海浜地の大部分の所有名義人が牧口義方となっていることは当事者間に争いがない。)。旧嶽ノ尻二番と旧家ノ下一七番甲の各土地も然りである。この両土地に挟まれる旧下浜一番一の土地については、地券台帳の当該記載部分が欠落しているが、この土地が本件海浜地の一部であることからして地券台帳の所有名義人は他の海浜地同様右牧口義方と推認できる。従って本件旧土地の地券は同人宛に交付されたものと推認できる。牧口義方は、明治三二年(一八九九年)一二月二〇日死亡し、同人の長男牧口義矩(明治九年・一八七六年一二月生、昭和三二年四月死亡)が義方を家督相続した。

4  輸送パイプラインの設置等と賃料の徴収

ところで、荒浜村の北東方面には、日本の石油採掘の発祥地ともいうべき往古からの西山油田があった(現刈羽村から三島郡出雲崎町、一部柏崎市に跨がる。)。ここで採掘された石油をパイプラインで柏崎の製油所(現在のJR柏崎駅附近)まで輸送するため、明治三四年六月一三日、牧口義矩は、三島徳蔵に対し、本件旧土地の一部(前記県道沿いに計長さ一三二〇間、幅三尺)に、鉄管所有を目的とする地上権を設定し、新潟地方法務局柏崎支局同年六月一四日受付第三六五三号をもって右地上権設定証書を原因とする地上権設定登記がなされた(右地上権の設定及び登記の事実は、第一事件当事者間で争いがない。)。右地上権は、明治三四年六月二〇日、株式会社イントルナショナルオイルコムパニーに、また、明治四〇年六月二四日、日本石油株式会社にそれぞれ譲渡され、それぞれ登記が経由されたが、昭和一〇年一〇月一日、解除により消滅した。更に、荒浜村は、帝石に対し、旧下浜一番一の土地の一部を油田からの排水を濾過するための濾過地として賃貸し、被告柏崎市と合併するまで同社から賃料の支払いを受けこれは行政村としての荒浜村の収入として計上されていたが、合併当時、右土地に設置されていた濾過地は跡形もない状態であったため、被告柏崎市は右契約を承継しなかった。なお、合併後における昭和三三年から昭和四〇年にかけて荒浜町内会が帝石より、荒浜海岸濾過地あるいは嶽ノ尻排水敷地の貸地料、地代、貸地補償料、借地料名目で右濾過地の賃料相当程度の金員を受け取っていた。

5  荒浜住民による本件海浜地の利用

(一)  製塩

荒浜地区は、日本海に面し、大半が荒涼たる砂地であるため、耕作地に乏しい。そのため江戸時代から製塩や漁業が営まれており、また江戸時代には、既に塩や干鰯等を年貢として上納していたことが種々の古記録に見える。しかし製塩については、明治初頭のころには既に衰退して、全くその跡を断つに至った。もっとも以後、明治三三年ころ、一時、牧口義矩が、製塩事業を企業化するため、本件海浜地に、巨額な資本を投下、機械・重油を用いた大規模な設備による製塩事業を興したものの、数年で廃業した。また第二次世界大戦前後の物資の乏しかった一時期、欠乏物資を自給するため、荒浜住民のうちには、自宅のある前記荒浜本村の集落に近い旧家ノ下一七番甲の土地で、僅かながら海水を蒸発させる原始的な方法での塩炊きをした者もいた。

(二)  漁業

漁業は、春、秋の鰯漁を中心として、昭和二〇年代まで盛んであった。本件海浜地には、鰯の漁獲期に、大量に漁獲された小鰯を天火にさらして干鰯とするための干鰯場、魚網を干すための網干場が設けられ、また、漁具を格納したり、干鰯を監視するための番小屋なども建てられていた。しかし、荒浜地区の漁業は、地引き網と定置網を主とする小規模な沿岸漁業であって、数名の網元と地引き網の引き子などを加えても、漁業に従事するものは、漁業の最盛期でさえ、せいぜい荒浜村の労働人口約一五〇〇ないし一七〇〇名の一割程度に当る約一〇〇ないし一五〇名に過ぎなかった。また、干鰯場などとして利用された海浜地は、主として、集落に近い家ノ下辺りであり、集落から遠く離れた下浜辺りは余り利用されなかった。更に、春に大羽鰯漁のため荒浜地区にやってきた出雲崎の漁船から本件海浜地の使用料を徴収したことがあった。しかしそれは荒浜漁業組合が徴収したのであって、荒浜住民や荒浜村が徴収したものではなかった。また勿論荒浜住民が海浜地の使用料を、荒浜村から徴収されることもなかった。しかも、昭和二〇年代も後半になると漁獲量が著しく減少したため、荒浜地区の漁業は急激に衰微し、その後は、漁業従事者も僅か十数軒を数えるに過ぎなくなっている。原告住民のうち漁業に従事したことのある者は原告池田ら極く僅かの者である。

(三)  海岸漂流物の取得

本件海浜地に漂着する材木などの漂流物は、おのずと最初に見つけた住民が取得していた。これが家庭用燃料として使用されることもあったが、普通は山林に成育していた雑木の割り木や松葉が使用されており、都市ガスの普及により、昭和三〇年代半ばには、これすらなくなった。

(四)  住民間の本件海浜地の利用調整

被告柏崎市と合併する以前の荒浜村は、旧荒浜本村・現荒浜町と旧荒浜新田・現松波町とで、それぞれ別々な相互に独立した独自の区組識を有していた。これが右合併後片や「荒浜町内会」(「新潟県柏崎市荒浜町内会」)、片や「松波町内会」として発足する。このうち旧荒浜本村は、もともと一二の区に区分され、各区毎に区会(常会)があり、また常会長会議も開かれていた。右区は、昭和二九年の荒浜村と被告柏崎市との合併に伴ない、右の荒浜町内会の組織に組込まれた。右区又は町内会の構成員は、荒浜町内に居住し、漁業ないしその関連の事業に従事する者に限定されない。役員の選挙権・被選挙権に関して等差を設けているが、荒浜町外に居住していても同町内に事業所を設けている事業主や、先祖から現荒浜町に居住していない者などでも区ないし町内会の構成員となることができる。従って基本的には荒浜町の住民の純然たる親睦団体であり、その活動も主として、村役場、市役所からの連絡事項を住民に伝達する程度である。区会ないし、町内会には構成員たる住民の資格の得喪や浜の利用に関する右以上の規定はない。区会、常会長会議で本件海浜地の利用やその調整について話し合われたこともなかったし、他に荒浜住民の間に本件海浜地の利用についての文書その他による取り決めもなかった(文書による右取り決めがなかったことは、第一事件当事者間で争いがない。)。原告住民は、この荒浜町内会に所属する。

6  本件土地に対する荒浜村の管理

荒浜村は、明治三九年一二月二六日、牧口義矩から本件旧土地を含む本件海浜地一帯の所有権移転登記を受けた後、明治四五年三月、新潟県訓令第一六号市町村歳入歳出取扱規程準則に基づき財産原簿に右土地を村有財産として登載した(右登記当時の同村議会議事録には、同村による同土地取得に関する決議の記載はなく、この点は第一事件当事者間で争いがない。)。また、大正一〇年ころから、本件海浜地に堆積する砂利を競争入札により払い下げていた。昭和九年三月二〇日には、砂利公売競争入札規則を制定して採取区域を四区に区分(本件旧土地は第四区)し、各区毎に入札させて得た収入を歳入計上してきた。更には本件土地を含む村有地について森林法による保安林指定を受けているが、その間本件土地の一部などに防風林、防砂林を植栽するなどしてきた。

7  荒浜村から被告柏崎市への財産引継

本件土地は、昭和二九年七月五日合併承認を原因として、荒浜村から被告柏崎市に所有権移転登記が経由されたことは前記のとおりである。荒浜村と被告柏崎市との合併は、昭和二九年五月二九日、双方の議会において、それぞれ出席議員全員(荒浜村は一六名中一四名、柏崎市は三〇名中二九名)の賛成により、合併に伴ない荒浜村の基本財産等を柏崎市に引継ぐ等として異議なく可決承認された(荒浜村の右欠席議員二名も、予め提出した欠席届において、右柏崎市への編入及び財産引継ぎを承認している。)。その引継財産目録中の基本財産土地明細には「砂浜」として、本件土地を含む本件海浜地の多くが登載されている。そして右合併当時、荒浜住民からもこれに対する抗議の申立はなかった。本件原子力発電所設置反対が荒浜村の地元で始まったのは、昭和四六、七年ころであるが、同土地が荒浜住民の共有の性質を有する入会地である旨の主張が住民によって関係各方面に対してなされるようになったのは、被告東電の本件原子力発電所設置に対する原発絶対反対運動が盛り上がった昭和四九年ころ以降(本件係争の団結小屋の設置も同時期ころ)である。

二 入会権についての判断

1  入会権の位置

原告住民は、本件土地に共有の性質を有する入会権を有すると主張する。

ところで入会権は、その原初的形態において、一定の地域の住民が、当該住民に属する村落共同体(入会団体)の規制のもとに、一定の山林原野などにおいて、共同して、主として雑草、秣草、薪炭用雑木などの採取をする慣行上の権利と定義される。この入会権につき、民法二六三条は、「共有ノ性質ヲ有スル入会権」について、同法二九四条は、「共有ノ性質ヲ有セサル入会権」について、それぞれ規程し、いずれも各地の慣習に従うほか、前者は民法の共有に関する規定(同法二四九条以下)を適用し、後者については地役権に関する規定(同法二八〇条以下)を準用すると定めている。この民法の規定によれば民法上、共有の性質を有する入会権とは、入会団体の各構成員が当該入会地(地盤)を共同所有する形態の入会権と解される(もっとも入会権における共有というのが講学上のいわゆる総有を意味することは前述したとおりである。)。したがって、入会権の存否、その内容などは、まず、各地の慣習により決せられることであるが、入会権の右定義に従えば、いかなる形態の入会権であれ、入会権が成立するためには、少くとも、入会団体及びそれを構成する構成員、入会地及びそれに対する使用収益の慣行、当該使用収益あるいは入会地の管理処分、構成員の資格の得喪変更に関する団体的規制の存在が不可欠というべきである。

2  本件土地に対する入会権の存否

そこで本件において、原告住民を含む荒浜住民が、本件土地に対し、入会権を有していたか否かを検討する。

(一)  本件海浜地の利用状況

荒浜住民は、近世(徳川時代)以来、本件海浜地を利用して製塩をし、あるいは漁獲した小鰯の干鰯場等としてこれを利用し、こうした加工産品を、近隣の農家に行商するなどして生活していたのであり、このような状況は、製塩については明治初頭まで、また、漁業は、昭和二〇年代ころまでは盛んで、鰯が大量に漁獲された当時は、本件海浜地が漁民の干鰯場や網干場として利用されたのみならず、漁具を格納するための番小屋などが建てられていたものである。

(二)  入会団体及びその規制

(1) 前述したとおり一定地域の住民に入会権が認められるためには、当該住民らに、当該土地において使用収益するにつき各住民の使用収益を規制し、当該土地につき管理処分権能を有する各住民で構成される入会団体の存在が不可欠である。かかる入会団体の存在及びその規制の存しない以上、仮に一定の土地において附近の住民が各自長年にわたって、雑木等の採集等をしていたとしても、それはせいぜい当該土地が公共用物であれば自由使用の範囲において、またそれ以外の場合であればその所有者又は管理者からの異議のないままに事実上当該土地において右採集等をしているに過ぎず、このような事実上の利用は利用者各自がそれぞれの自由意思でいわば勝手にやっていることであり、これをもって入会権の行使と目すべきものではない。

(2) しかるに本件においては、原告住民を含む荒浜住民の先祖が、本件土地において、原告住民主張の製塩、干鰯等をなすにつき、これを規律する入会団体の存在及び前記収益がこの入会団体の規制のもとに行われていたことを認めるに足る証拠は存しない(また、入会団体の構成員について、原告住民は、荒浜村が柏崎市と合併した昭和二九年七月五日当時、同村に戸を構える世帯主あるいは荒浜住民というだけで、その具体的氏名、人数、その後の構成員の変動、構成員の資格の得喪変更についてはこれを何ら明らかにしていない。このように団体を構成する構成員が原告住民を除いて不明ということは、むしろ原告住民のいう入会団体なるものが存在していないことを推測させるものである。)。

もっとも前記認定の荒浜地区の歴史・地勢等によれば、同地区には江戸時代には、既に村・荒浜村が形成されていたものであり、また前記古記録の記述によれば、江戸時代においても荒浜村が一村請で塩や干鰯等を年貢として上納していたことを認めることができる。しかしこのことから直ちに本件土地を含む本件海浜地の荒浜住民による利用につき、荒浜村が同時に入会団体として存在していたとはいえない。蓋し一村請の「年貢」の上納といえば、江戸時代における行政組織上の荒浜村の地位ないし活動を示すものであっても、そのことの故に本件海浜地の利用につき同時に荒浜村が入会団体であることを示す証左とはなし難いからである。

また町村制下の荒浜村の誕生以後も同様である。明治二二年、町村制施行による荒浜村の誕生に伴ない、江戸時代以来荒浜村が有していた機能の多くは、行政主体としての荒浜村に引き継がれていったが、しかしそれでもなお生活共同体としての荒浜村の実態及びその機能の一部は、時代と共に変遷しつつも、行政主体としての荒浜村とは別個に存続していったものと考えられる。従って仮に町村制施行に伴なう荒浜村の誕生後、現在に至るまでなお荒浜地区に入会団体が存続しているとすれば、それはかかる意味における生活共同体が、一方において入会団体として存続し、かつ機能しているということになる。しかるに町村制施行による荒浜村発足後の荒浜地区における住民の組織としては、僅かに前記区ないし町内会を認めるのみであって、しかもこれは荒浜地区の親睦団体の域を出ず、本件海浜地の利用について規定・規制するものが何らないし、かってその利用の調整が図られた形跡すらない。それも、町内会は二つあり、原告住民の所属するのは荒浜町内会であるが、これは勿論荒浜地区全体を統括する団体ではない。

(3) また前記のとおり本件海浜地は、北端の嶽ノ尻川の河口から南端の旧鯖石川の河口まで海岸線の総延長が約七キロもあり、またその間の本件旧土地の部分だけでさえ海岸線が一・八キロで、本件旧土地の公簿面積は約三二万平方メートルに達するという程の極めて広大な範囲の土地に及ぶ。そもそも海浜地区は近世以来村が形成され、一村一字を保って明治の町村制による荒浜村の誕生に至ったものであった。従って仮に右海浜地に原告住民主張の入会権が成立していたとすると、この広大な海浜地の全域にわたる入会権の成立を肯定せざるを得ないはずである。しかるに主たる産業であったと思料される漁業でさえ、その最盛期の従事者は、労働人口の約一割に当る一〇〇ないし一五〇名程度に過ぎないものと推定されるのである。しかも荒浜住民の製塩は零細で、それもせいぜい明治初頭までであった。また、漁業は、もともと地引き網漁を中心とする小規模な沿岸漁業であった。昭和二〇年代ころまでは盛んで、鰯が大量に漁獲された時には、本件海浜地が漁民の干鰯場や網干場として利用され、また漁具を格納するための番小屋などが建てられていたが、これに利用された場所は、主として海浜本村の集落に近い旧家ノ下一七番甲の土地であり、旧下浜一番一の土地は余り利用されなかったのである。このような本件海浜地の使用状況に照らせば、海浜地は荒浜住民の利用密度に比較して余りに広大であって、住民の間で海浜地利用の調整を図る必要は、そもそも存しなかったはずである。現に前記区会(常会)ないし町内会において海浜地の利用調整が話し合われたことはなかったし、浜の利用について文書その他による取り決めもなかった。

従って以上の諸事情を考慮すると、荒浜住民は、入会団体の管理、規制のもとで本件土地を含む海浜地を利用してきたとはいえず、前記荒浜村の住民の年来の海浜地利用をもって、荒浜住民が本件土地を含む海浜地に共有の性質を有する入会権を有していたものと認めることは困難である。他にこれを認めるに足る証拠は存しない。

(三)  本件地引絵図の意味

もっとも、原告住民は、本件旧土地が荒浜住民の共有の性質を有する入会地であることは、本件地引絵図に、同土地部分を「村請公有地」として表示してあることから明らかである、右土地は、地租改正事業の官民有区分にあたって民有地第二種に編入された土地であり、牧口義矩名義で保存登記されたのは、登記の便宜上、当時の村の有力者であった同人名義としたにすぎない旨主張する。

なるほど前記本件地引絵図の記載によれば、本件旧土地は、「村請公有地」と記載されている(その一部に、本件旧土地が位置していることは明らかである。)。また、<証拠>によれば、本件地引絵図に名の見える改正調用掛佐々木順導、戸長牧口荘三郎などの右当該役職在任期間などから、同地引絵図は明治八年ころ作成されたものと推認できる。そして新潟県においては、前記認定のとおり、官民有区分を推進するため、同年七月一三日県庁布達第二二七号で地租改正調人民心得書を公布した。その第一四条には、「総じて一村中の儀は、従来の本田、畑、宅地尻附新田、無難地、漬地等を始め、反高大縄場、従来の小物成場、試作地、社寺上地の類は勿論、社寺現今境内地、墓所地、堤外不定地、其他沼、潟、池、水溜、山林原野、秣場、海岸空地、稲干場、物干場、物揚場、官林等に到るまで、持主の有無、官有、民有の区別に拘らず、地所の順次を以て更らに一筆限り、新規押の通り、番号を附する地引帳並地引絵図を仕立て一村毎に差出す可き事。」と規定されており、このことから、本件地引絵図は、右人民心得書に基づいて作成されたものと推認できる。

ところで地券台帳上の所有名義人は、旧家ノ下一七番甲及び旧嶽ノ尻ニ番の各土地が牧口義方であり、また旧下浜一番一の土地も同人と推認できることは前記のとおりである。更に<証拠>によれば、長礒二六三九番の土地も同人名義であるが、臂曲二六四六番の土地は官有地第三種となっていることが認められる。しかるにこれらの土地は、いずれも本件地引絵図では「村請公有地」とされている範囲内にある土地であることは明らかである。更に登記簿上の所有名義人等の変遷を辿ってみると、まず本件旧土地については前述のとおりである。

また<証拠>によると、旧嶽ノ尻二番の土地も牧口義矩に所有権保存登記がなされており、<証拠>によると、粉糠浜二〇四八番の土地も明治三四年五月八日、同人に所有権保存登記されたこと、更に、牧口義矩に所有権保存登記がなされた右旧嶽ノ尻二番、旧家ノ下一七番甲及び粉糠浜二〇四八番の各土地は、いずれも同人から他の個人や行政村としての荒浜村に所有権移転登記がなされた後に分筆され、数次にわたる所有権移転登記が経由されている。しかし右処分につき荒浜住民の同意手続が践まれたり、処分による利益をこれに分配したりした形跡は勿論窺えず、これまで右各土地について荒浜住民の共有の性質を有する入会地である旨の主張がなされたことがなかったこと、などの諸事実に照らすと、本件地引絵図中に「村請公有地」の記載があることをもって、本件土地を含む本件海浜地が官民有区分により民有地第二種に編入されたとにわかに断定することはできず、他に右海浜地が「所有の確証のある」ものとして民有地第二種に編入されたことを認めるに足りる証拠はない。

(四)  鉄管敷地料等の徴収

また、原告らは、行政村としての荒浜村ではなく生活共同体としての荒浜住民が、本件旧土地に設定された地上権の地代である鉄管敷地料を徴収し、管理してきた旨主張する。なるほど<証拠>によれば、右原簿の表紙に、敢えて「但村長ニ於イテ株券及証書預リノ分也」と記載されており、また、蓄積された鉄管敷地料の一部を牧口義矩個人に貸し付けている旨の記載部分がある。しかし、<証拠>によると、明治四四、四五年の荒浜村の各村会会議録の村有財産目録中に本件旧土地が登載されており、明治四五年三月の新潟県訓令第一六号市町村歳入歳出取扱規定準則に基づき大正三年四月一ワ日に調製された荒浜村の財産原簿にも右各土地が登載されていること、更に、<証拠>によると、大正一一年の荒浜村議会において日本石油株式会社の鉄管敷地料の不払問題が議論されていることなどを総合すると、鉄管敷地料が記載された予算書、決算書はみあたらないものの、本件旧土地は、行政村としての荒浜村が、村有財産として管理していたもの、引いて同土地に設定されていた地上権の地代である鉄管敷地料も行政村としての荒浜村が徴収、管理してきたと推認すべきである。更に、<証拠>によると、前記鉄管敷地料原簿が作成された大正二年当時、荒浜村は町村制という法律により管理運営がなされていたところ、同法第七二条二項四号には、町村長の職務権限として公文書類を保管する旨規定されていることから、「但村長ニ於テ保管ノ分」と明記されていたとしても、むしろ行政村としての荒浜村の村長が右帳簿を保管してきたものと認められるのであって、他に生活共同体としての荒浜村が鉄管敷地料を徴収、管理してきたことを認めるに足りる証拠はない。

なお、柏崎市と合併後、荒浜町内会が昭三三年から昭和四〇年にかけて帝石により荒浜海岸濾過地の貸地料等の名目で、旧下浜一番一の土地内に存した排水濾過地の使用料程度の金員を徴収していたことは前認定のとおりである。右排水濾過地の使用料は合併前においては、行政村としての荒浜村がこれを徴収し、同村の会計に組入れていたが、合併後は右契約を承継しなかったものであり、右荒浜町内会の徴収にかかる金員が、合併前において行政村としての荒浜村が徴収していた濾過地の使用料と同一であるかどうか本件証拠上必ずしも明確とはいえないうえ、仮に同一であったとしても、本件海浜地のごく一部に過ぎない土地に対する右の期間程度の貸地料の徴収をもって、本件土地を含む本件海浜地について原告住民が共有の性質を有する入会権を有するとする証左とはなし難い。

(五)  牧口荘三郎の浜年貢の納入

原告住民は、牧口荘三郎が明治九年三月二二日、浜年貢として四六銭余を八組長の品田喜三治に支払っている、自己所有地に対し、浜年貢として使用料を支払うはずはないのであるから、右は本件海浜地が荒浜住民の共有の性質を有する入会地であることを示すものである旨主張する。

<証拠>の領収書には、「納人持高三斗壱升弐合弐勺上等上級牧口荘三郎記一金四拾六銭八厘三毛濱年貢一同三銭八厘小區石當一同拾銭一厘小區割計金拾銭七厘三毛明治九年三月廿二日受領八番組品田喜三治本月廿二日取立候事」(毛筆)と記載されていることが認められる。

しかしながら右の「濱年貢」が本件海浜地の使用料であることを裏付ける証拠はない。前記古記録の記述も然りであるが、「年貢」とは、物の使用料ではなく、元来租税を意味する用語であることは多言を要しない。したがって、右の浜年貢も租税、即ちこの場合は、一定収穫に対する一定量の物納(多分干鰯の類)を意味するものとみるのが妥当であり、右記載をもって本件海浜地が荒浜住民の共有の性質を有する入会地であると認める証左とはなし難い。

3  総括

以上の検討によると、荒浜住民が入会団体の規則のもとに、本件土地を含む本件海浜地に共有の性質を有する入会権を有しているものとは認め難い。

従って原告らの被告東電に対する本件第一土地への立入禁止等の請求は理由がない。

第四  被告両名の本件土地の所有権取得について

一  所有権取得原因

前記認定の地租改正の経緯等に照らすと、近代的土地所有権は、明治新政府が封建的土地制度を一掃し、近代的土地所有制度を整備するため推進した地租改正事業の過程において確立され、これによって所有者となった者が、特段の事情のない限り、不動産登記法施行後に所有権保存登記をなしたというべきであって、当該土地の所有権は、従来から右土地に対し高度な支配力を有してきた者、すなわち所有権に類するような強度な権利を有していた者に帰属したと解するのが相当である。

本件旧土地は、前記認定のとおり、地券台帳上牧口義方が所有者と記載(又は記載が推認)され、その長男牧口義矩が所有権保存登記を了していることなど、地租改正後に作成された地券台帳及び登記簿上の所有名義の変遷並びに同土地に対する前記認定のとおりの使用、収益、管理の状況などを総合考慮すると、本件旧土地は、明治初年における近代土地所有権の確立とその公証制度の推移に照らし、地租改正を経て、牧口義方が右の意味での高度の支配力を有する者として所有者と確定され、その後、同人の長男である牧口義矩が右土地を家督相続して所有権保存登記を経由した後、登記簿記載のとおり、明治三八年四月二四日、義矩から行政村としての荒浜村に売買により所有権が譲渡され、その後、荒浜村が被告柏崎市と合併したことにより、同被告が右各土地の所有権を承継してその所有者となり、このうち本件第一土地については、昭和五二年一〇月六日、被告柏崎市から被告東電に対し売買譲渡され、現在同被告が所有者となったものと認めるのが相当である。しかして本件土地について、荒浜住民の共有の性質を有する入会権の主張が認められないことは、先に説示のとおりである。

二  第二事件被告らの土地の占有

第二事件被告らが本件第二土地の係争部分に別紙物件目録六記載の建物を共有し、その敷地である同目録五の土地を占有していることは第二事件当事者間に争いがない。

三  総括

よって、被告柏崎市の第二事件被告らに対する本件建物収去土地明渡請求は理由がある。

第五  結論

以上の次第であるから、第一事件については、原告らの被告柏崎市に対する本件不当利得返還請求は不適法であるからこれをいずれも却下し、被告東電に対する本件土地立入禁止等請求は理由がないからこれをいずれも棄却し、第二事件については、被告柏崎市の本訴請求は理由があるからこれを認容し、訴訟費用の負担につき民事訴訟法八九条、仮執行宣言について同法一九六条を各適用して、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 小田泰機 裁判官 櫻井登美雄 裁判官 小林康男)

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